植木通彦
植木通彦

2002年(平成14年)史上最強の"オバケエンジン"が出現、蒲郡で史上初のナイターSGを開催、スタート展示が開始

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オバケ機出現、春の嵐を制す

前年から全国の大注目を浴びていた、平和島の36号機が大爆発。とにかくケタ違いのパワーで猛威をふるった。総理大臣杯(平和島・現「クラシック」)では地元の野澤大二が引き当て、追い風15mの凄まじい波浪水面の中で豪快にまくってSG初優勝を飾った。
この36号機のトータル戦績は、24節で14優出5優勝、2連対率は64%に達した。まさに伝説となった同機は、その後長らく平和島場内に展示されていた。後に迎える減音機時代を先取りした、史上最強の"オバケエンジン"であったといってよいだろう。

今垣と植木が激しく頂点を争う

年間を通してみると、今垣光太郎と植木通彦がハイレベルな覇権争いを展開した。まず今垣が、2艇のFが出て大返還となった宮島グラチャンで優勝。若松オーシャンカップでは植木が地の利を発揮して快勝した。続く蒲郡MB記念(現「メモリアル」)では、史上初のナイターSGを開催。ここで2号艇の今垣は、インを奪取して逃げ切った。秋に入り、全日本選手権(平和島・現「ダービー」)は原田幸哉がSG初制覇。津チャレンジカップはまた植木が制した。SG2勝ずつの今垣と植木は賞金王決定戦(住之江・現「グランプリ」)でも、ともに優出。2号艇の今垣を3号艇の植木がまくって決着をつけた。その結果、植木は現在も残る2億8418万4000円という年間獲得賞金ランキングの記録を作った。

スタート展示が開始

この年の8月から、ボートレースにおける革命的なルール変更が実施された。「スタート展示」の実施だ。これより11年前までは「スタート練習」があって、ある程度は本番のコース取りが推測できたものだが、それが廃止になってファンは進入で悩んだもの。今よりはるかに"枠なり"が少なく、前付けも多かった。それが「スタート展示」と名前を変えて復活。細かいルールはその後何度かの変更を重ねたが、レース前にある程度の進入予想とスタートの気配が見られるようになった。もちろん予想への影響はとてつもなく大きかった。当時の事前アンケート結果では、「賛成」が61%、「反対」は20%だったから、概ね好意的に受け入れられたようだ。
山本圭一

1957年横浜生まれ。物心ついたころからトランプなどでギャンブルに目覚め、20代では公営競技に没入。ボートレース歴も40年近い。初めて行った多摩川ではいきなり5連勝して「オレは天才だ!」と勘違い。 本誌マクールには創刊から携わり、昨年まで約15年編集長をつとめた。趣味の海外旅行でも各国のカジノなどを楽しむ。