当時の特別レース開催告知広告。服部幸男が主役。
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1995年(平成7年)新世代スター・服部幸男が輝く「これからは僕たちの時代です」

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阪神大震災で開催中止が相次ぐ

この1995年は、ボート界とその周辺で大きな出来事が多発した年だった。まず1月17日、阪神・淡路大震災が発生。神戸から大阪にかけての被害は甚大で、びわこ、住之江、尼崎の3場が1月中の開催を中止。びわこは2月1日、住之江は2月12日より再開したが、尼崎は年度いっぱい中止となり、再開は4月。また42周年記念も中止となってしまった。

2月の東海地区選で、服部正彦・幸男親子のGI同時優出が実現。24歳の幸男が勝ち、「これからは僕たちの時代です」と高らかに宣言。その言葉通り服部は、3月のクラシック(当時は「総理大臣杯」)→5月のオールスター(当時は「笹川賞」)とSGを連勝。ファンの注目を独り占めした。なおマクールはこの年の2月、3月号から月刊で発行を開始した。

ベテランのプライドと若手の勢い

しかしベテランたちも黙っていない。6月のグランドチャンピオンでは野中和夫が勝って、当時のSG6冠を全て制覇。史上初のグランドスラムを達成したと大いに盛り上がった。

8月のメモリアル(当時は「モーターボート記念」)はSG初開催の三国で行われ、中道善博がまくって優勝。さらに10月の丸亀ダービー(当時は「全日本選手権」)では、地元の安岐真人以外は全員30歳以下という“若手包囲網”を突破し、50歳の安岐がインの服部を差し切って優勝した。

年末の大一番・グランプリ(当時は「賞金王決定戦」)は、28年経った今でも語り草になっている。若手の旗頭であった植木通彦とベテランの中道によるデッドヒートは、最後の最後までもつれ、植木に軍配が上がった。

スタート事故防止装置導入

SG以外でも書き留めておかなければならないことがいくつかある。6月に、スタート事故防止を目的として、尼崎がSKS(スタート感知システム)、8月には住之江がFKS(フライング警報装置)を導入。賛否があったが、FKSは約8年、SKSは11年近く使用された。

7月には「競艇生みの親」と呼ばれた、笹川良一・全国モーターボート競走会連合会名誉会長が逝去。また同月には北原友次が倉田栄一の通算勝利記録を更新。この後はひたすら同記録を更新し続けた。

山本圭一

1957年横浜生まれ。物心ついたころからトランプなどでギャンブルに目覚め、20代では公営競技に没入。ボートレース歴も40年近い。初めて行った多摩川ではいきなり5連勝して「オレは天才だ!」と勘違い。 本誌マクールには創刊から携わり、昨年まで約15年編集長をつとめた。趣味の海外旅行でも各国のカジノなどを楽しむ。