2015年(平成27年)超大ベテラン・加藤峻二が電撃引退!27年ぶりに男子選手の最低体重を50→51キロへ引き上げ
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男子の最低体重が51㎏に引き上げ
接触の際の衝撃を緩和する目的で製作された「ヤマト331型」が、前年12月の常滑を皮切りにこの年、休催中の鳴門を除く全国各場に導入。このエンジンは事故防止の目的で馬力を下げたため、「出力低減機」、「低出力機」などと呼ばれたが、レースに大きな影響を及ぼすこととなった。まずは個体差が大きく、とくに下位機の立て直しがとても難しいこと。またレースにおいては、当初の想定よりずっとインが強くなり、まくりが届かなくなった。センター・アウト勢の苦戦はこの頃から顕著になってゆく。そしてレースの上がりタイムは一気に2秒ほど遅くなった。
もう1点、選手への影響が大きかったルール変更があった。男子の最低体重が51㎏に引き上げられたことだ。たかが1kgと思われるかもしれない。しかし昭和63年の最低体重制施行以来、27年を経ての大変革だったのだ。これによって減量が楽になって復活した選手や重量級強豪も少なくなかった。ちなみに女子選手の最低体重は47㎏に据え置き。男子との体重差は4kgと若干開いた。
SG3勝の山崎智也がMVP
水面での覇権争いを牽引したのは山崎智也だ。オールスター→グラチャンと連覇、さらにグランプリも制した。そのいずれもが優勝戦1号艇を手に入れ、きっちりと勝ち切る横綱相撲。文句なしのMVPを獲得した。しかし新たなSG覇者も続々と生まれた。クラシックは前年の第1回ヤングダービー覇者である桐生順平。ダービーは実力者の守田俊介が遅まきながら40歳での初V。そしてグランプリシリーズは長田頼宗が制した。
しかしSGであと一歩で惜敗を重ねていたのが峰竜太だ。メモリアルでは1号艇で優出、いったんは先頭を走りながら篠崎元志に逆転を許した。それでも峰は初の年間最高勝率(後に金字塔と連なる7年連続の初年)、併せて最多勝利のタイトルも獲得して存在を大きくアピールした。
またこの年、超大ベテラン・加藤峻二が引退した。数々の最年長記録だけでなく、全盛時代はインが有利なボートレースにおいて記念の檜舞台でアウトからも華麗な活躍を見せ、さらにはフライングも極端に少ない選手でもあった。
外向場外発売所が空前の活況!
ボートレースの売上は、11年の東日本大震災の年を底として、少しずつ回復しつつあった。この当時の全売上に対する比率は、本場が20%弱、電話投票及びインターネットはまだ33%程度で、残る47%弱は場外発売が占めていた。とくに『外向場外発売所』での伸びは凄まじかった。この施設は各レース場の敷地内にある発売所のことで、平和島の「平和島劇場」のように併売発売場の数が激増。朝からナイターまで、複数場の舟券を買えるということで大きな人気を集めた。
また「ボートピア」など、レース場敷地外の場外施設の売上も回復。他の公営競技(地方競馬や競輪・オート)との“相乗り"複合施設の増加傾向も目立った。
1957年横浜生まれ。物心ついたころからトランプなどでギャンブルに目覚め、20代では公営競技に没入。ボートレース歴も40年近い。初めて行った多摩川ではいきなり5連勝して「オレは天才だ!」と勘違い。 本誌マクールには創刊から携わり、昨年まで約15年編集長をつとめた。趣味の海外旅行でも各国のカジノなどを楽しむ。