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インタビュー

現役引退から2ヶ月が経過

今のところ、生活は大きくは変わっていないですね。実際に辞めた後でも、ボート人生に後悔や未練はないですよ。選手人生を全うしたと思っています。今はまだテレビの収録とかで呼ばれて、忙しいですかね。

引退の反響

引退会見後は連絡がすごかったですよ。弟にすら言っていなかったですからね。徳山に行くのに家を出る時に女房とおふくろに言ったくらいでしたから。みんな「えっ?」ってビックリの方が大きかったやろうね。本当はこそっと辞めたかったんよ。女房からも「こそっと辞めーよー」と言われてましたしね。でもそうはいかなくて、あんな立派な会見を準備してくれて。

でもね、体は正直でね。俺は今まで血圧が高くなったことがなかったんですよ。だけど今回は前検日に150を超えてたんですよ。自分はこれが最後って分かってるんだけど、看護師さんも高くないのを知っているから「どうしたん、なんかあった?」って。何もないって言ったけど、自分の中ではドキドキしてたんやろうね。
もともと現役を長くやろうというのは心に置いていなかったです。若い時は50歳までって考えてた。結局9年も延びましたけど。もういつ辞めてもいいと初めて口にしたのは51、52歳くらいの時。それを女房が聞いた時、「辞めて何するん。何もせんやろ」と言われて、もうちょっと頑張ろうかなと。でも最近はどちらかというとレースするのが嫌やったですから。それでもレースが終わって自分の時間がちょっとだけ作れて、好きなゴルフができて、もうちょっとゴルフしたいなと思って、レースに行って。でも前はレースが終わって帰るとゴルフゴルフってなっていましたけど、いざ毎日行けるとなったらね。今はまだ2ヶ月しか経っていないけど、いざ暇になったらどうなるんだろうとは思います。

引退理由となった増量

精神的にキツかったですね。正直、早く辞めたかった。体重を増やすことは本当に苦痛だった。レースをしてたら、どんどん体重が減っていくからね。宿舎でカップヌ—ドルを食べてたら、テラッチ(寺田千恵)に「今村さん、そんなのばかり食べてちゃダメ!」と怒られたことがありました(笑)。それでおむすびを握ってくれて。硬さがちょうどよかったのを覚えています。
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ボートとの出会い、親父の夢

引退会見で「父親に勧められたので」と言いましたけど、実際に言われたのは子供のころ。就職する時に勧められたわけではなくて、まだ小さかった時に「お前は体が小さいから選手になれ」と。というのも、親父が選手になりたかったんですよ。地元の会社で働いていたんですが、選手になりたくて、下関ボートの守衛さんのところまで行っているんですよ。親父がまだ独身の頃にね。そしたら「(ボート選手は)やめた方がいい」と言われたみたいで。試験も何も、守衛さんに止められてそのまま帰っていったんです。

親父はそのまま働いて、結婚して僕が生まれて、そしたらボートがだんだんと盛んになってきたら、やっぱり悔いがあったんでしょうね。でも親父に言われた時、つまり子供の時は全く興味がなかったんです。なれと言われても全く興味がないし、なる気もないし。まあそんなこんなで中学行き〜の、勉強嫌い〜の。
高校までは行こうと思ったけど、大学の選択肢はなかったです。普通校に行ったらだいたい大学に行くので、商業か工業かと思って。ほんとは商業に行きたかったんですよね。僕は数学が好きだったし、商業に行けば、銀行員とかになれるかなと思って。銀行員になりたい感じでした。数字は本当に強かったんでね。でもいざ高校受験になった時に、商業を受ける男がおらんやったので工業になって。それから3年間通って、卒業する前に就職活動せんといけんじゃないですか。高校にくる求人には一流企業から地元の企業からいろいろあるわけですよ。でも初任給を見たら、どこも一緒くらい。当たり前の話ですが、高卒だったらこの値段みたいな。でも一流企業でも名前を聞いたことがない会社でも同じ給料に「何で?」と思ったわけですよ。それじゃあ面白くないなと考えてたら、そういえば親父が「ボートの選手になれ」と言ってたことを思い出して。すぐにパンフレットを取り寄せてもらって、そこに選手の給料というか平均年収が書いてあって。当時の高卒の初任給は、確か8万円くらいだったと思うけど、選手の平均年収は800万円から900万円に届かないくらいだった。それを見て「それならこっちだ」と思って。まあ平均くらいは稼げるかなと思って。平均年収狙いで。決め手はそれ!年収よ!(笑)。

生涯獲得賞金は29億円超え

記憶にございません(笑)。確か1年目の賞金は800いくら。900万はいかなかったかな。翌年はもう3000なんぼやったから、賞金王があったら行けていますよ(笑)。2年目も。あの時は賞金王がなかったですしね。

12月になった時に、藤野(禎知)さんという先輩がいたんですけど「お前、今年(の税金)はすごいことなるぞ」と言われて。ここまで稼ぐと税率がものすごく高くて。「何それ?」となったのを覚えています。12月の下関を勝った賞金も、1月からの賞金もずっと残して4月の確定申告でやっと払えました(笑)。稼ぎながら税金を納めるというのが、結局40年間それがずっと続くわけです。もう楽できなかった。今の3000万円だったら、そんなにキツくないですよ。2億稼いだ次の年が1億くらいだったけど、毎月記念を優勝しないと追いつかんやった。ほんとよ。稼いでいる時は税金のことしか頭になかった。「これを勝たんと税金が払えん」みたいな。こんな話したら夢も希望もなくなるけどね(笑)。だから賞金王は獲りたいと思っていたけど、獲ったらどうしようという気持ちもあった。来年は恐怖やな〜と(笑)。

出る杭でも打たれない

普通なら打たれると思いますよ。でも出る杭を打たれないように、いろんなことをしてきたんよ。僕が風呂場やトイレのスリッパを並べてたという話は聞いたことあるでしょ?結局、いろんなことをちゃんとしとると、周りも「何も言えんな」となるんですよ。レース以外のこと、オカの上にあがった時に、何もケチを付けられないように。そうなると全てのことをせんといけんくなるからね。おかげで先輩レーサーにはケチを付けられるどころか、本当にかわいがってもらいましたよ。人がしないことをやっていましたね。
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全盛の20〜30代

順風満帆でしたよ。無敵?敵だらけですよ(笑)。いい20代、30代でしたからね。ライバルと呼べる人はいなかったですね。逆にみんながライバルだった。

全盛期は30代だろうね。英治が弟子になった時もその頃です。新人はみんな下手で「こいつはクビになるな」と思うことはたくさんあったけど、英治はほっといてもクビになることはないなとは思った。それよりも手綱を引かないといけんなと思った。SGに初出場してくる選手でも、すごい選手が出てきたなと思ったことはなかったですね。

現役時代、大きなケガはなかったし、腰とか膝が痛いとか一度もなかったんですよね。体のケアを全くしていなかったですけどね。ポートに乗るのがトレーニングでしたし。風邪は引いても、ケガをすることはなかったね。でも辞めたら腰は痛いし、坐骨神経痛は出るし。めっちゃくちゃ痛いですよ。そのツケが回ってきているのかな。

クリーンファイト

正統派として危ないレースをしなくても勝てるならやらん方がいい。相撲でもそうだけど、横綱なら横綱らしい相撲を取らないと。横綱が立ち合いで変わったら、人は絶対いい事を言わない。堂々と受けて立つしかない。だから人が認めてくれるんだと思いますね。ただ、成績がいいだけでは人は認めてくれない。あとは本人がどういう考えでやっていくかですよ。

独自のスロースタート

スロー組、ダッシュ組ができた当時、スタート展示でスローに入ったら本番もスロー、ダッシュならダッシュ(という規則)だったんですよ。それが本番レースだとピット離れでパコーンって出ることが多くてね。インまで取れるのにという時でも、ダッシュに出なきゃダメだったんですよ。だから本番に備えてスローにおったんですよ。それがなければスローもダッシュもしていましたよ。変な規定でも結局はそれに慣れて対応するしかないんだけどね。記者会見でも言いましたが、まあいろんなことが変わりましたよ。
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最高峰のダービー

思い出のレースは、ダービーって言わざるを得ないですよね。会見で言ってしまいましたし(笑)。僕はずっとダービーが最高峰のレースだと思っていますから。勝率順で出られるわけだから、その年のナンバーワン決定戦だと思っていた。賞金王は、はっきり言ってまぐれでも何でもSGを1つ勝たないと出られないわけじゃないですか。逆に言えば、1つ獲れば出ることができるレースなので、そこまで大したレースとは思っていないんですよ、価値的に。賞金はすごいけど。僕からしたら、グランプリというのは年に1回のお祭り。本当の日本一を決めるとなると、やっぱりダービーだと思う。まぐれじゃ出ることができないから。 ダービーとか、あとは昔でいうところのMB記念(メモリアル)。今は各場で2人ずつ選ぶけど、昔は開催する施行者さんが今まさに旬の人しか呼ばなかったから。とにかく来てほしい人しか呼ばれなかったからね。今だと大阪とか2枠だと厳しいよね。

衰え

42、43歳くらいかな。メニエル病も関係しとるかもだけど。衰えというかやる気がなくなったというか。あんまり根を詰め過ぎると、めまいが出るから、成績のことは極力考えないようにし出したから。最終的に終わってみればずっとA級で、それだけが自慢できるところですよ。出走回数ができてから、そこは気にしながら走っていたけど、勝率に関して電卓を叩いたことはなかった。でも去年、初めて叩いたことがあった。A1級とか点数とか複勝率とか大丈夫かなと。全部6着だったらヤバいなと。終わってみたら6.60くらいだったけどね。ゴルフでもベストは70だけど、最近は80かな。もう飛ばなくなってきたし、下手になってきた。

元選手の奥様

女房(元選手の庄島真知子さん)とは同期生。でもね、不思議なのが、入所する時か小型船舶を取りに行った時かは忘れたんですけど、どっちも富士駅集合なんですよ。で、1人の女性が駅のバス停に立っていたんですよ。そして僕が電車を降りて、その女性の目の前を通った瞬間に「あっ、俺この人と結婚する」と思ったんですよ。ただの一般人かもしれないんですよ?でも何でか知らんけどビビッと来たんです。それははっきり覚えています。で、バスに乗って向かったら、そこにいたわけですよ。いきなり仲がいいわけではないし、半年くらいしてから仲良くなって。女房は結納を交わした後、入っているあっせんを走って選手をやめることになりました。今でも買い物やゴルフとか出かける時はいつも一緒ですよ。
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第2の今村豊人生

今のところは何も考えていないですね。正直、目標がないから何がしたいというものがない。旅行は好きだけど、今はコロナだからね。ゆくゆくは日本1周をしたいね。めちゃくちゃいい旅館に泊まりたいですね。海外だとハワイだけど、実は飛行機が嫌いなんですよ。寝れないし、閉じ込められるのが嫌なんよ(笑)。

肉◎、酒×

今、一番好きな食べ物は肉。霜降りじゃないやつがいい。今までステーキとか200g以上を頼んだことはなかったけど、300gを初めて頼んだらペロっと食べることができて、それがうれしくてね。お酒はビールやったら中ジョッキを少し残すくらいかな。全部飲むと頭が割れそうになる(笑)。親父も1、2杯でぶっ倒れていましたからね。

自宅は新築して丸4年。立派な表札は英治がプレゼントしてくれました。家ではのんびりかな。庭の掃除は結構しますね。
今のところ取材などは基本的に受けていますが、解説者とかになると、それは仕事になるじゃないですか。それはしないです。仕事をする気はないですから。だってよく考えてみて?仕事するんだったら選手を辞めてないですよ。レースも全く見ないですね。現役時代も休みの時に見ることはなかった。ボートレースから離れたいです(笑)。

もし、20歳くらいに戻ってもう1度選手をやり直すかと言われたら、間違いなく「嫌」と言う(笑)。人生すらやり直したくない。選手になっていなかったら?滑り止めで地元の会社を受けていましたから(笑)。

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