3.「インの鬼姫」と呼ばれた鵜飼菜穂子が引退

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鵜飼を支えたのが沢田菊司

 

鵜飼が走り始めて5年ほどすると「選手持ちプロペラ」の時代がスタートします。鵜飼を支えたのが、デカペラの考案者の沢田菊司です。レース中の事故で亡くなりますが、それまでずっと沢田が鵜飼にプロペラを提供していました。

「沢田さんが時間をかけて叩いてくれたプロペラなので、どうしたも結果を残したかった。3枚から5枚へと持ち込めるプロペラが増えていきましたが、叩いてくれたプロペラの中で一番モーターに合うのを見つけるようにしていました」

まず1枚目をつけて試走をしてみます。チルト-0.5度から+3度まで5回試走をするのです。それが終われば次のプロペラを付けた試走です。本番レース以外の空き時間に鵜飼の試走する姿がありました。2日目も3日目も試走を繰り返していました。

「私が水面に出なくなったらプロペラが決まったと思ってください」

インの鬼姫のニックネームどおり、インから1着を並べていました。人気に少しでも応えようと体重を絞り、拒食症に近い状態で走っていた時代もありました。

 

優秀選手表彰の選考基準を変えた

 

鵜飼の強さは優勝戦でも発揮されていました。鵜飼の全盛時は年間に9回も優勝していました。その当時の優秀選手の中に「最多優勝」の部門がありました。SGやGⅠで星のつぶし合いをやっている男子選手が優勝回数を伸ばせない中で、年間最多優勝に鵜飼か山川が最多優勝で表彰されていました。

 

レベルの低い女子の中で優勝しても、それを優秀選手として表彰するのはどうかという意見が出され、最多優勝部門が最多勝利部門へと変わりました。女子の最低体重のルールが寺田千恵のSG優出で変わったように、鵜飼もボートのルールを変えました。

鬼姫と怖れられた鵜飼ですが、「モンキーターンは怖くてできません」とモンキーターンはやりませんでした。沢田菊司がレース中の事故で亡くなったのも鵜飼には辛い出来ごとでした。

プロペラからターンスピードの時代になるにしたがって、鵜飼は時代の波から取り残されるようになっていきました。

これまで対談した回数は600回を超えると言われています。女性の社会進出やボートレースの知名度アップの貢献は大いに評価されて良いでしょう。