艇界を動かした20人~その5
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【黒明良光】
2090 黒明 良光 岡山
日本がバブル景気に沸き、競艇の売上も最高を記録したのが昭和末から平成の初めにかけて。この時期に絶大な人気を誇ったのが黒明良光である。
何しろレースがカッコよかった。アウトからのまくりはまさに豪快無比。その苗字から「黒い弾丸」と呼ばれ、そのまくりは「弾丸まくり」と固有名詞のようになった。もちろんインからも行ったが、進入がもつれると嫌がり、アウト勝負に出ることは確かに多かった。
その大きな理由は、通常時は60㎏を超える体重にあった。内から深くなると出足で勝負にならない。したがってダッシュ戦の選択となる。トータル戦績を見ればわかるが、体重ハンデが出る淡水のプールではひと息だったが、浮力があってハンデが少ない海水のレース場では圧倒的に強かった。
20代後半から記念勝ちを記録するも、全国区としての強豪になったのは30代半ば。この時代の強豪としては遅咲きだった。37歳の時、85年の平和島鳳凰賞で体重を55㎏まで絞って5コースからの一気まくりで初SG。さらに89年の下関笹川賞では、Fが2人出るも大外6コースからのまくり差しで優勝している。
2096 中道 善博 徳島
中道善博を史上最高のテクニシャンと評する記者やベテランファンも多いだろう。人差し指1本でハンドルを2周半切れるといった、数々の伝説に彩られている。
22期の同期・黒明良光とは大の仲良しだったが、戦法は対照的だった。アウト戦で売り出した黒明に対し、中道は若い頃から内へ。インはもちろん、2・3コースからのさばきは絶品。79年のSG初制覇(笹川賞)も2コースからの差し切りだった。
40代を迎えて90年に入ると、円熟のさばきはますます冴えてSGタイトルも増えていった。92年は笹川賞→グラチャンと連覇、94年には賞金王決定戦も制した。92年グラチャンは野中和夫と、95年の賞金王決定戦では植木通彦と抜きつ抜かれつの大接戦。史上に残る好勝負の主役でもあった。
96年には総理杯で優勝。しかしその優勝インタビューで「あと4年で辞める」と爆弾発言。その宣言後も98年に賞金王シリーズを勝つなど一流の戦績を残しながら、2000年末に惜しまれつつ引退。
現役時代はストイックな雰囲気で記者も寄せつけにくい雰囲気があったが、引退後はスポニチの解説者としてなかなか味わいのある内容でファンを楽しませている。
2833 荘林 幸輝 熊本
艇史においては、SG優出を重ねながらその栄光を手にできなかった『無冠の帝王』が何人かいる。荘林幸輝はその代表だろう。
42期生としてデビュー。同期生は吉田稔・平野勇志・久間繁ら精鋭揃いで、数年後には“花の42期”と呼ばれた。いずれも記念を複数勝ちながら、誰一人としてSGに到達できなかったのも不思議な巡り合わせだ。
90年台前半は全盛期で、GI優勝を重ねて賞金王決定戦にも第5~8回の4年連続を含み5回進出。92年のMB記念はいったん先頭を走りながら、2マークで逆転を食らって2着と惜敗。結局19回の優出を重ねたが、勝利の女神は微笑まなかった。しかし同時代のファンにとっては、並のSG覇者よりも忘れ難い存在であったろう。
熊本出身なので「火の国の男」といった燃え盛る闘志をイメージされることも多かったが、むしろ正反対で、口数の少ない物静かなタイプだった。
その荘林は2012年末に引退すると、すぐやまと学校(現ボートレーサー養成所)の実技教官となって、選手養成に努めている。落ち着いた性格は、むしろ教官が似合っているのかもしれない。