艇界を動かした20人~その3

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【安岐真人】

ボートレース界のレジェンドにスポットを当企画、3回目の今回は以下の3選手。その名が丸亀のGW開催にも冠されている安岐真人さんは、ビギナーのファンでも知っている人が多いのではないか。

1738 松本 進 愛知

東海地区を代表する強豪として長らく一線を張ったが、減量合戦時代だっただけに、体重が大きなハンデに。それでも77年の福岡ダービーでは59kgの体重を55kgまで減量して優勝している。

そしてこの体重差をカバーするために、整備にはとことんこだわり、とくにプロペラに注目した。そしてその整備やペラのノウハウは、他の選手にも惜しみなく公開した。後年持ちペラ制になった時に、後輩の沢田菊司らがデカペラを開発したのもその土壌があったからだ。また当時の頂点を争っていた野中和夫や中道善博のペラも、松本の助言が大きかったことが知られている。

選手生活の晩年には選手会碧南訓練所の所長として、後進の指導に当たった。引退後は雑誌「月刊マクール」でも、各種の企画や大レースの解説など活躍した。レースでの実績以上に、整備や人材の育成において、業界に大きな足跡を残したひとりといえるだろう。

1812 長嶺 豊 大阪

佐賀県の生まれだが、小学校時代に住之江ボートの近くに引っ越し、加藤峻二に憧れて選手になる。

早くから活躍して記念戦線でも実績を残し、大阪を代表する選手のひとりとなった。レースぶりはイン戦主体だったが、2・3コースの張り差し(外をけん制してその反動を利して差しを決める)は彼の専売特許。コーナー戦も果敢で、かなり荒っぽいレースも辞さなかった。

その一方で、フライング多発で困窮していた後輩に経済的な援助をしたとか、性同一性障害の選手のバックアップをしたりと、“人情的な”エピソードも多く、長い間大阪支部の支部長を務め、「浪速のドン」と呼ばれた。

GI優勝は10回を重ねたが、SGでは惜敗が多く、なかなか手が届かなかった。しかし93(平成5)年のダービーで悲願の初優勝。49歳11カ月というのはSG初優勝の最年長記録である。本人だけでなく、周囲の関係者やファンの中にも感涙にくれる人が数多く見られた。SGタイトルはこのひとつだけだが、史上に残る人気レーサーであったことは間違いない。