下関
艇界を動かした20人~その2
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【加藤峻二】
ボートレースの歴史に、大きな足跡を残したレーサーにスポットを当てるシリーズ、その2回目は以下の3人だ。このうち加藤峻二は、2015年5月までは現役だったこともあり、名前だけは知っている、というビギナーの方もいるのではないか。
1481 北原友次 岡山
艇史に大金字塔といわれる3417勝という勝利数を残したのが北原友次だ。現役で最多の今村豊(58歳)が4月27日現在で2862勝、最近1年では40勝だったので、このペースで行けても抜くためには14年かかる計算となる。非現実的な数字といってよいだろう。
北原は、まだ若い頃からインに入っていった。単純に「勝ちやすいから」というのがその理由だったという。今のような枠なり時代ではなく、「若手は外から」という不文律のあった時代だったので、周囲から相当非難もされた。しかし勝つことでそれを黙らせた。
昭和39年に弱冠24歳でダービーを逃げて勝ち、53年に鳳凰賞(現クラシック)を制して、当時行われていたSGを全冠V。史上初のグランドスラマーにも輝いた。
北原自身は孤高の存在だったが、彼に続く岡山勢は極めてレベルが高く、石原洋・武田章・大森健二、さらに黒明良光らが続いた。記念ではあまりに岡山勢が多くなり、『一般戦の鬼』も多数生み出す結果となった。
1485 加藤峻二 埼玉
73歳まで走った加藤峻二。実は兄がオートレーサーで、本人もその希望があったそうだが、競艇の方が先に合格したのでボートの選手になったというエピソードがある。17歳でデビューして、長い選手生活が始まった。
レーススタイルは、「ハヤブサの舞」と謳われた華麗なアウト戦。5期で同期の北原友次はイン屋で、レーススタイルは正反対だったが仲の良いことで有名だった。しかしレースに行けばライバル。1981(昭和55)年の浜名湖ダービーの優勝戦では大競りになり、村上一行に漁夫の利をさらわれたレースも語り草になっている。
平成に入ってスピード化が進んでも見事に対応、03年の平和島笹川賞では61歳にして優出、さらに71歳で優勝という最年長記録も次々に作った。
Fが少ないことでも艇界屈指であり、何度も無事故の表彰を受けているが、15年5月に戸田で超久々のF。その節で引退を決めた。最後のレースは5コースからのまくり差しを決めて、北原に次ぐ史上2位の3294勝目を記録。引き際も華麗だった。
1488 岡本義則 福岡
伝統的に数多くの強豪を生んできた福岡支部。その中でも最高峰のひとりと評されるのが岡本義則だ。九州の強豪の場合、地元での圧倒的な強さがクローズアップされる選手が多かったが、岡本は地元だけでなく、全国どこの場でも巧腕ぶりを発揮した。
レーススタイルとしては、一撃で他を圧倒するタイプではなく、正確無比な旋回で上位着を揃え、さらに整備力で群を抜いていた。贈られたニックネーム「ターンの魔術師」「(岡本)先生」がそのキャラクターを表している。
景気のいいコメントは少ないが、凡機でも節間最後まで黙々と仕上げていく職人肌の走りに、ベテランの記者、解説者、ファンに信奉者が多かったのも「先生」という呼称につながっている。
6期の同期に彦坂郁雄という記録男がいたため、SG優勝は3回と多くはないが、それでも期勝率1位に8回輝くなど高勝率をキープ。また50歳を超えても強く、賞金王決定戦には6回出場、92(平成4)年の第7回では57歳で優出している。